これなーんだ??
どうしたんじゃ?中学生じゃアルバイトはできんじゃろうに。
だって物はちょうどいいくらいの量持つのがいいんでしょ?多すぎず少なすぎずっていう。
まさかさっそく行動に移すとは。こりゃたまげたの。
※渋沢栄一の話題が出た過去の回はこちら↓
せっかくじゃから今日のテーマは渋沢栄一さんのことにしようか。
新しい1万円札の顔じゃからの。
渋沢栄一さんは“どうして新1万円札の顔に選ばれたのか”
“何をした人”で“どういうところがすごいのか”
気になりはせんじゃろうか?
渋沢栄一さんのこと気になるよ!
どんな人とか、やったこととか、なんにも知らないからさ!知りたい!
今日のテーマは“渋沢栄一”という人物についてじゃ。
できるだけわかりやすく説明しよう。
目次
新1万円札の顔『渋沢栄一』
マナブはなぜじゃと思う?
なんで渋沢栄一は新1万円札に選ばれたの?
問 題
渋沢栄一が新1万円札の顔に選ばれた理由は?
わかるわけないじゃん!
“なぜ栄一さんがお札の顔に選ばれたのか”
を考えてみてほしいんじゃよ。
お札になるってことはきっと、そのくらいすごいことやった、てことでしょ?
世の中のためになるようなさ。
でも、想像だとそれくらいのことしかわかんないよ。
マナブが大事なキーワードが言ってくれた。
それは、“世の中のため”ということじゃ。
これが大事なキーワード??
これについてはのちほどくわしく説明しよう。
先に問題の答えじゃ。
日本の近代化に大きく貢献したから
それは『日本の
答 え
日本の近代化に大きく貢献したから
「新しい紙幣の肖像になる渋沢栄一氏、
ということじゃの。
紙幣の肖像の選定理由を教えてください
【答】
新しい紙幣の肖像になる渋沢栄一氏、津田梅子氏、北里柴三郎氏は、それぞれの分野で傑出した業績を残すとともに、長い時を経た現在でも私たちが課題としている新たな産業の育成、女性活躍、科学の発展といった面からも日本の近代化をリードし、大きく貢献した方々です。三者ともに、日々の生活に欠かせず、私たちが毎日のように手に取り、目にする紙幣の肖像としてふさわしいと考えています。
なお、近年の改刷においては、
紙幣の肖像の選定理由を教えてください : 財務省
(1) 偽造防止の観点から、なるべく精密な写真を入手できること、
(2) 肖像彫刻の観点からみて、品格のある紙幣にふさわしい肖像であること
(3) 肖像の人物が国民各層に広く知られており、その業績が広く認められていること
といった観点を踏まえて、明治以降の人物から採用しています。
それってすごいことなの??
ちょっとよくわからないかも。
“渋沢栄一”という人物についてここから深掘りしていこう。
『渋沢栄一』を知る
吉沢亮さんが主役のやつだよね!
あれって渋沢栄一さんを演じてたんだ!
大河ドラマや新しいお札のおかげで
「“渋沢栄一”って名前くらいは聞いたことがある」
という人は多いじゃろう。
じゃが、渋沢栄一さんがどういう人物なのかはあまり知られておらんのかもしれんの。
渋沢栄一ってどんな人?
要は、自分のビジネスでたくさんの人々の生活を豊かにする人じゃな。
栄一さんは500もの会社の設立・運営に携わったと言われておる。
ふぇ〜めちゃくちゃいっぱい会社やってたんだね!
実業界での活躍ぶりから、
「近代日本経済の父」
「日本資本主義の父」
「日本実業界の父」
と呼ばれておるの。
たくさん会社をやってたからなんだね!
ただ、栄一さんにこういう名誉ある呼び名があるのは、会社の数だけではないと思うんじゃ。
国の古いしくみをガラッと変えた上で、今まで日本になかった会社をいくつも作ったんじゃ。
それによって日本の近代化が進み、たくさんの人の生活が豊かになったんじゃよ。
さっきから「日本の“近代化”」って言葉が出てくるんだけどさ。
いまいちピンとこないかも。。
“近代化”ってどゆことなの??
江戸時代と明治時代の街並みを見比べればわかりやすいじゃろう。
ほれ、これを見るんじゃ。全然ちがうじゃろう?
これが“近代化”ってことなの??
農業から工業へ。
和服から洋服へ。
ちょんまげから
侍から会社員へ。
馬から鉄道へ。
“近代化”とはこういうことなんじゃ。
これに大きく貢献した人物のひとり、それが渋沢栄一さんなんじゃ。
道徳とビジネスを両立し、日本の近代経済の礎を築いた実業家
『道徳とビジネスを両立し、日本の近代経済の
じゃ。
道徳とビジネスを両立し、日本の近代経済の礎を築いた実業家
日本の近代経済のいしずえを築いた実業家。。?
とはいえこれだけでは説明のつかないところもたくさんあるし、そもそもこれがどういう意味かよくわからないと思うんじゃ。
渋沢栄一さんの人生のあゆみから一緒に見てみよう。
渋沢栄一はどんな人生だったの?
まずは栄一さんの年表を見せよう。
なんのこっちゃわかんないや。
ハカセ〜解説して〜
渋沢栄一さんの人生は大きく4つの時代に分けられる。
野心に満ちた『
頭角を現した『
国のルールを改めた『新政府役人時代』
人々を豊かにした『実業家時代』
の4つじゃ。
1つ目の『尊攘志士時代』じゃが、
“尊攘志士”というのは知っておるかの?
まったく聞いたことないや。
“尊王攘夷”とは「天皇を
つまり、“尊攘志士”というのは「天皇を尊び、外国勢力をしりぞける」という思想を持った武士たちを表す言葉じゃ。
彼らは幕府反対派なんじゃが。。。
その説明だと“尊攘志士”ってのは
「天皇のこと尊敬してます!」
「攻めてくる外国人は日本にこないで!」
てことだよね?
幕府はなんにも関係なくない?
だって幕府って昔の政府のことでしょ?
黒船やペリーのことは知っておるじゃろうか?
「開国しなさ〜い」て日本にやってきた外国人でしょ??
日本はそのころ鎖国が200年ほど続いておった。
そんなときに1853年にペリーが浦賀にやってきて開国を要求してきたんじゃ。
幕府はその要求に従って、開国したんじゃ。
「わかりました、日本はあなたの国と貿易しますよ」とサインをした、ということじゃな。
このとき結んだ条約が、1854年の
反発する声も多い中で、半ば強引に進めた幕府の対応に納得のいかない者たちが、幕府反対派として、尊王攘夷の思想を強く持つようになる。それが“尊攘志士”なんじゃ。
渋沢栄一さんもその1人だったということじゃ。
それがさっき言ってた「違和感」とどうつながるの??
栄一さんはこのあと、幕府に
渋沢栄一さん、幕府反対派だったのに幕府に入っちゃったんだ!
それどーゆーことなの?!
では渋沢栄一さんの人生を時代ごとに見ていこう。
❶ 野心に満ちた『尊攘志士時代』
渋沢栄一さんは1840年に埼玉県
栄一さんは幼いころから父親に学問を教わり、10歳のときからいとこ・
まあ平たくいえば哲学のようなものじゃよ。
渋沢栄一は論語から人としての大切な考え方を学んだ
“
という言葉じゃな。
これは
“自分がされたくないことは人にもしないようにしなさい”
という意味じゃ。
こういう言葉をまとめたものが“論語”なんじゃよ。
ちっちゃいときからそんなこと学んでてすごいや!
栄一さんはとても賢く育ったそうじゃ。
それは渋沢家が英才教育だったこともあるが、栄一さん自身が勉強熱心だったというのが大きいじゃろう。
そのくらいの頃から早くも商売の才能が見え隠れしておったという。
14歳のときから1人で
ぼくとおんなじくらいじゃん!
大人もびっくりだね!
栄一さんが16歳のとき、その後の思想や行動に大きく影響する出来事が起こる。
“幕府の
年貢をきっちり納めておるにもかかわらずじゃ。
栄一さんが「父に確認して改めてお返事します」と答えたところ、代官が怒って「そんなのいいからさっさと持ってこんかい!」と言ったそうなんじゃ。
500両というのは現代のお金に換算すると、数千万円ほどのお金らしい。。
そんなことがあっていいの。。?
でも当時は
じゃが、栄一さんは決して納得できなかった。
「これはあまりにも不平等すぎる!」
「権力者とはいえ理不尽にも程がある!」
「こんな身分差別があっていいものか!」
そういうことを思ったんじゃ。
だって絶対におかしいもん!
不正に対する怒りや悔しさ。
幕府への不信感。
社会制度への疑問。
栄一さんはこの出来事がきっかけで
「日本を変えたい!」
「日本をもっと良くしたい!」
という強い思想を持つようになるんじゃ。
渋沢栄一は「日本を良くしたい」という強い思想を持つようになった
ここから本気で日本を変えようと行動するんじゃ。
それとともに尊王攘夷の思想がどんどん強まっていったんじゃろう。
あっ「天皇は尊敬、外国人はこないで」ていう幕府反対派の考え方のことだったっけ!
そして栄一さんが23歳のときじゃ。
“
これは、いとこ・尾高惇忠を含めた尊攘志士の仲間たちと、
それどうなっちゃったの??
尾高惇忠の弟・
栄一さんは家族や親族が巻き添えを食らわないよう、1人故郷を離れて京都へ行くんじゃ。
❷ 頭角を現した『幕臣時代』
ここからが2つ目の『幕臣時代』じゃ。
放浪中にある人物と再会を果たすんじゃ。
栄一さんが18歳くらいの頃、江戸に出向いて学んでおったときに交流のあった人なんじゃ。
この再会が渋沢栄一さんの運命を大きく変える。
一橋家というのは幕府とかなり密接な関わりがある。
栄一さんはこのタイミングで幕府側になった、といえるじゃろう。
栄一さんのこと悪く言いたくはないんだけど。。
いっしょに「幕府を倒すぞー!」てやってた仲間たちからしたら栄一さんが幕府側につくのって裏切ったことにならない?
じゃが、栄一さんのいちばんの目的は
「日本を良くしたい」
ということじゃ。
それが叶うのであれば、尊攘志士側であろうと、幕府側であろうと、手段を問わなかったんじゃないじゃろうか。
栄一さんは幕府をやっつけることが目的じゃなくて、日本を良くすることが目的なんだった!
表面的に見れば寝返ったようでも、栄一さんは一貫した強い信念を持っておったんじゃろう。
それと、一橋慶喜は幕府側でありながらも改革派だったんじゃ。
彼の下につけば幕府を内側から変えて日本を良くできると思った、というのもあるかもしれんの。
1866年、主君であった一橋慶喜が
名前も変わって
それにともなって栄一さんは幕臣になったんじゃよ。
あっという間に将軍の右腕じゃ。
それってすんごい早さのスピード出世なんじゃ。。
これまで積み重ねてきた学問の知識や商売の経験が、このころから発揮され始めたんじゃ。
そして翌年の1867年、大きな転機が訪れる。
栄一さんは使節団として、徳川慶喜の弟・
日本にとっては万博は初参加じゃ。鎖国しておったからの。
このパリ万博の参加というのは、栄一さんの人生にとっても日本の近代化にとっても、最も重大な出来事といえるじゃろう。
もしかしてまたヤな代官みたいな人がパリにいたとか?
栄一さんがパリで見たものは、日本とはまったくちがうものばかりだったんじゃ。
日本にはない先進的な機械工場。
銀行や株式会社という画期的なしくみ。
市民が自由に意見を交わせる社会。
パリには感銘を受けるものがたくさんあったんじゃ。
項目 | 日本 | フランス(パリ) | 渋沢栄一が感じたこと |
---|---|---|---|
産業と技術 | 農業中心、産業革命以前、手工業 | 工業中心、産業革命終盤、機械化 | 日本の産業は遅れている、近代化が必要 |
経済と金融 | 自給自足経済、金融制度未発達 | 資本主義経済、近代的な金融制度 | 日本の経済・金融は遅れている、近代化が必要 |
教育と文化 | 教育制度未発達、伝統文化、西洋文化への関心低い | 近代的な教育制度、西洋文化、文化的多様性 | 日本の教育・文化は遅れている、近代化や新しい文化が必要 |
社会構造と政治 | 身分社会、農村中心、封建国家 | 市民社会、都市中心、中央集権国家 | 日本の社会構造は不平等で政治は遅れている、改革・近代化が必要 |
都市インフラ | 城下町、交通網未発達 | 大都市、近代的なインフラ | 日本の都市インフラは遅れている、整備が必要 |
『人も社会も豊かになるしくみ』
ということを知ったんじゃ。
渋沢栄一はパリで日本にない株式会社・銀行・機械工場などのしくみを学んだ
日本では身分のちがいがあってあたりまえじゃったからの。
目に映るすべてが衝撃的な光景だったんじゃよ。
これってカルチャーショックってやつじゃない?
わしはの、栄一さんはショックというよりもきっと、刺激的でワクワクしたんだと思うんじゃ。
「これを日本に取り入れたらどうなるんだろう」
「日本は今よりももっと豊かになるに違いない」
そう思ったはずじゃ。
ここからの栄一さんの活躍がそれを物語っておる。
❸ 国のルールを改めた『新政府役人時代』
それが1867年の“
聞いたことあるじゃろう?
習ったような習ってないような。
それなんだっけ??てへへ。
それをおこなったのは、栄一さんが仕えておった徳川慶喜じゃ。
これによって鎌倉時代から約700年続いた武士の時代が終わりを迎えたんじゃ。
“大政奉還”ってそんなすごいことだったんだ!
栄一さんはお世話になった徳川慶喜に恩返ししたかったんじゃが、慶喜から「お前はお前の道を行きなさい」と言われたらしいの。
1869年、栄一さんが29歳のときに作ったのが、“
銀行と商社を合わせたような組織で、近代企業の先駆けとなる画期的な組織だったんじゃ。
もう株式会社みたいなの作っちゃったなんて。
まわりの人も「渋沢栄一はただものじゃない!」てなったんじゃない?
栄一さんのその功績が知れ渡って、新政府・明治政府にいた
彼にスカウトされ、栄一さんは大蔵省に入り官僚として働くことになるんじゃ。
いわば“政府の財布”じゃからの。
そこで栄一さんは
2年足らずで200以上の改革をするんじゃ。
渋沢栄一は役人時代、2年弱で200以上の改革をおこなった
- 1869年
- 商法会所の設立(株式会社の前身となる組織の創設)
- 1871年
- 租税制度の改革(地租改正を実施)
- 郵便制度の改革(近代的な郵便制度を導入)
- 新貨幣制度の制定(金本位制を採用し、円を発行)
- 造幣局の設立(円の鋳造を実施)
- 電信制度の整備(電信線を架設)
- 1872年
- 度量衡制度の改革(メートル法を採用)
- 国立銀行条例の制定(国立銀行の設立を認可)
- 1873年
- 商法の制定(商取引に関する法律を制定)
- 第一国立銀行の設立(日本初の銀行の創設) など
どんどん国のルールを変えていったんだね!
1870年の栄一さんが30歳のときに、
この工場は、“
1873年には
パリで学んだ銀行制度を取り入れた、日本初の近代的な銀行じゃ。
株式会社とか銀行とか、パリ万博で勉強したことがちゃんと活きてるんだ!
そして、1873年に栄一さんは大蔵省を辞めることになるんじゃよ。33歳のときじゃ。
“実業家・渋沢栄一”の誕生じゃ。
“実業家・渋沢栄一”。。?
❹ 人々を豊かにした『実業家時代』
栄一さんは大蔵省を辞めるやいなや、自らが創設に関わった第一国立銀行の
そういえばさっき言ってなかったんじゃが、この第一国立銀行は現在のみずほ銀行なんじゃ。
今もある銀行じゃん!
はじめにも話したとおり、栄一さんは500社ほどの設立や運営に携わったんじゃが、それらは今から100年以上前に作られた会社でありながら、今もなお続いておる会社がたくさんあるんじゃよ。
東京海上火災保険、王子製紙、東京ガス、サッポロビール、日経新聞、東京電力、帝国ホテル、JR東日本など挙げだしたらキリがないほどじゃ。
民間人になった渋沢栄一は500もの会社の設立や運営に携わった
(現存する会社も多数ある)
- 企業
- みずほ銀行、東京海上火災保険、王子製紙、JR東日本、東京ガス、サッポロビール、アサヒビール、キリンビール、東洋紡、日経新聞、東京電力、帝国ホテル など
栄一さんすごすぎじゃん!
本当の意味で人々を豊かにする企業であればおのずと永く続くと考えておったんじゃ。
栄一さんに教えを
そういう若い実業家たちが集まって経済や社会を学んだり、交流したり、親睦を深めたりできるように“
その組織は“渋沢栄一記念財団”と名前が変わって、今も引き継がれておるの。
ぼくも栄一さんからいろいろ学びたくなってるもん。
栄一さん、いまは“ビジネスの超すごい人”ってイメージ!
「近代日本経済の父」とか「日本資本主義の父」とか「日本実業界の父」って呼ばれてるのはそういうことだったんだね!
じゃがの、栄一さんはビジネスだけに力を注いでいたわけではないんじゃ。
実は
教育や福祉や医療といった社会事業にも精力的に取り組んで社会に貢献したんじゃよ。
渋沢栄一は600もの社会事業にも取り組み、教育や福祉や医療などあらゆる分野で社会に貢献した
- 教育
- 一橋大学、日本女子大学、早稲田大学 など
- 医療
- 日本赤十字社、聖路加国際病院 など
貧困層や病弱者や孤児といった、社会的に弱い立場に置かれた人たちを支援し続けたんじゃ。
弱い人たちの味方でもあったなんて。。
晩年は、民間人でありながらアメリカとの外交にも取り組んでおったんじゃ。
そのころ移民問題や日清戦争の影響で日米関係は緊張状態にあって、栄一さんは心を痛めておったんじゃ。
日本とアメリカの関係改善のために積極的に民間外交に力を入れておったようじゃの。
こういった活動が認められて、ノーベル平和賞にも2回ほど候補になっておるんじゃ。
そして、91歳のときに多くの人に惜しまれながらこの世を去ったんじゃ。
葬儀には
栄一さんの多くの功績、実業家や慈善家としての志、人間としての魅力。
それらがたくさん詰まっておったじゃろう?
これが渋沢栄一さんの人生じゃ。
渋沢栄一は何した人?残した功績は?
栄一さんがやったすごいことってなんだっけ??
いっぱいいろんなこと聞いてよくわかんなくなってきちゃってさ。
渋沢栄一さんの功績をまとめるとじゃな、
『日本の経済・金融制度の基盤を構築したこと』
『日本の近代産業の発展に貢献したこと』
『教育・福祉・医療・文化・インフラなど幅広く社会に貢献したこと』
『
この4つじゃ。
ひとつひとつ解説しよう。
❶ 日本の経済・金融制度の基盤を構築した
これは主に大蔵省での役人時代の功績じゃな。
さっきも紹介したんじゃが、商法会所という株式会社のもととなる組織を作ったり、第一国立銀行という日本初の銀行を作ったりしたんじゃ。
つまりじゃな、国のルールを変えて、お金が動きやすいしくみ・ビジネスがしやすいしくみを作ったんじゃよ。
- 商法会所の設立
- 1869年(明治2年)に設立された株式会社の前身となる組織。
- 渋沢栄一は設立に深く関与した。
- 商法会所の設立は、日本の商工業の発展に貢献した。
- 第一国立銀行の設立
- 1873年(明治6年)に設立された日本で最初の近代的な銀行。
- 渋沢栄一は初代頭取を務めた。
- 第一国立銀行(現・みずほ銀行)の設立は、日本の近代化に大きく貢献した。
- 貨幣制度の改革
- 1871年(明治4年)の新貨幣条例(金本位制を採用し、円を発行)の制定に貢献した。
- 新貨幣条例の制定は、日本の近代化に不可欠な出来事。
- 殖産興業政策の推進
- 新政府の殖産興業政策を推進し、日本の産業の発展に貢献した。
いまも
❷ 日本の近代産業の発展に貢献した
こっちは主に大蔵省を辞めたあとの実業家時代の功績じゃ。
マナブもおどろいておったように、500社の会社の設立に携わったということもその功績の一つじゃろう。
- 約500の企業設立
- 銀行、保険、鉄道、電力、ガスなど、幅広い分野の企業の設立に貢献した。
- 代表的な企業としては、東京株式取引所、北海道炭礦鉄道、日本郵船、東京瓦斯、王子製紙など。
- 東京株式取引所の設立
- 1878年(明治11年)に設立された日本で最初の証券取引所。
- 渋沢栄一は設立に深く関与した。
- 東京株式取引所の設立は、日本の資本主義の発展に大きく貢献した。
- 商工業の発展を促進
- 商工業の発展を促進するために、商工会議所の設立や各種の制度改革に尽力した。
今も残るほど近代的であり、かつ、人々から信頼される会社を作ったということなんじゃ。
100年以上前に作られた会社が今もなお日本経済を支えてくれておる。
時代遅れだった日本を、栄一さんたちが前に進めてくれたんじゃよ。
JRとか銀行とか電気とかガスとか、もうあるのがあたりまえになっちゃってるもんね。
先人たちの努力のおかげでこの生活ができておるんじゃ。
❸ 教育・福祉・医療・文化・インフラなど幅広く社会に貢献した
これは600もの社会事業に取り組んでいたことじゃな。教育や福祉や医療など多岐にわたる。
教育に関してじゃと、貧困層や女性や地方の子どもたちといった、教育を受けたくても受けられない弱い立場の子たちにこそ注力すべきと考えておったそうじゃ。
- 渋沢財団の設立
- 1916年(大正5年)に設立された社会福祉事業を行う財団。
- 渋沢栄一は設立に深く関与し、初代会長を務めた。
- 渋沢財団は、現在でも社会福祉事業を行い続けている。
- 教育・文化事業への貢献
- 慶應義塾、女子大学、商工会議所立商業学校など、数多くの教育機関の設立に貢献した。
- 日本芸術院の設立に貢献するなど、文化事業にも積極的に取り組んだ。
- 渋沢栄一は、教育が近代化に不可欠であると考え、人材育成に注力し、日本の伝統文化を守るために文化活動の支援も行った。
- 福祉・医療事業への貢献
- 渋沢栄一は、日本赤十字社の設立に深く関与し、医療と福祉の発展を支援した。
- 東京慈恵会医科大学の設立を支援し、医療教育の普及に貢献した。
- 渋沢栄一は、福祉事業を通じて社会の弱者を支援し、医療サービスの向上に尽力した。
- インフラ事業への貢献
- 渋沢栄一は、東京ガスの設立に貢献し、都市ガス供給の基盤を築いた。
- 日本鉄道株式会社の設立に関与し、鉄道網の整備を推進した。
- 渋沢栄一は、電力事業にも携わり、日本のインフラ整備に大きな役割を果たした。
電気やガスや鉄道といった、われわれの生活を支える基盤のことを“インフラ”というんじゃが、人々が住みやすくなるようにインフラ事業にも取り組んだんじゃ。
鉄道を作ることで“人”と“物”の動きが活発になり、銀行や株式会社を作ることで“お金”の動きが活発になる。
そのおかげで国がどんどん豊かになっていったんじゃ。
「お金は社会の血液」て前に言ってたもんね!
❹ 道徳経済合一を広めた
渋沢栄一さんを語る上で欠かせないのが、この“道徳経済合一”という考え方じゃ。
“道徳経済合一”というのは、
「道徳と経済は両立すべきである」
という考え方のことじゃ。
一般的に、
人として
ビジネスでお金を稼ぐという“経済”は、
対立するもので両立できない関係、として知られておったんじゃ。
じゃが、栄一さんは
「道徳と経済の2つは矛盾しない。
むしろ、道徳のないビジネスは成立しない」
と説いたんじゃ。
それが“道徳経済合一”じゃ。
「人や社会に価値を提供することより、自分の利益ばかりを優先したビジネスをしてれば、一時的にうまくいったとしても長続きせずいずれ終わる」
そう考えていたんじゃ。
栄一さんの代表的な著書に『論語と
1916年、栄一さんが64歳のときに出された本じゃ。
リュックと添い寝ごはんだったら知ってるんだけどな(ボソ)
それよりさ、その『論語とそろばん』ってどういう本なの??
本のタイトルよくわかんなくてさ。
「孔子という人の教えを弟子たちがまとめたもの」てさっき教えてくれたでしょ。
“そろばん”のほうは??
なんか計算するってこと??
この本のタイトルなんじゃが、
“論語”は道徳や倫理のこと
“算盤”は経済やビジネスのこと
を表しておるんじゃよ。
『論語と算盤』は“道徳経済合一”の教えをまとめた本、といえるじゃろうな。
この考え方を世の中に広めて、みんなが豊かになる社会を目指したんじゃ。
すごい人すぎてぼくじゃちっとも真似できないや。
われわれでも真似できることはある。
それは渋沢栄一さんの精神じゃ。
渋沢栄一から学ぶべきことは?
ここが今日のいちばん大事なところじゃ。
われわれが学べる、渋沢栄一さんの精神は大きく3つある。
『
『弱者救済』
そして『道徳とビジネスの両立』じゃ。
教えて教えて!
❶ 公益の追求
1つ目は『公益の追求』じゃ。
これはマナブが答えを持っておるよ。
栄一さんがお札の顔に選ばれた理由じゃよ。
なんと言っておったかの??
あ!!!思い出した!!
“世の中のため”だ!!
“公益”というのは社会全体の利益のことじゃ。
栄一さんは社会全体が豊かになる、ということをなにより大事にされておったんじゃ。
じゃから、
「人として正しい方法でお金を稼いで、
社会が良くなることに使うべき」
と考えておったんじゃよ。
“よく集めよく
500両を理不尽に要求してきた、あの代官みたいになりたくなかったのかな。。?
そういうやるせない経験したからこそ、公益を重んじるようになったんじゃろうな。
❷ 弱者救済
なにかわかるじゃろうか?
うーちょっとむずかしいかも。
正解は??
大政奉還をさかいに武士の時代が終わり、大きな制度改正もあって、以前よりは身分の差がなくなった。
ただ、完全に平等にすることはむずかしい。いつの時代も権力者はいる。
「貧困層、病人・ケガ人、女性、地方に住む子どもたち、といった社会的に弱い立場の人を支援しよう」
という結論に至ったんじゃろう。
それが栄一さんから学ぶべきこと、2つ目の『弱者救済』なんじゃ。
1923年の関東大震災のとき、栄一さんは83歳という高齢でありながら、政府より早く炊き出しをしたり、被災者が収容できる場所や臨時病院を確保したり、国内外から多くの義援金を集めたりしたそうじゃ。
そりゃみんなから愛されるわけだ!
❸ 道徳とビジネスの両立
最後3つ目は『道徳とビジネスの両立』じゃな。
そういや最初にハカセ、栄一さんのこと
『道徳とビジネスを両立し、日本の近代経済の礎を築いた実業家』
て言ってたもんね!
『道徳とビジネスを両立』というのは、さっき言った“道徳経済合一”のことじゃな。
この道徳経済合一は現代にも通じる考え方なんじゃ。
じゃが、道徳というのはいつの時代も変わらないんじゃ。
いま日本は経済成長が伸び悩んでおる。
わしはいまのこういう時代こそ、人のためのビジネスが必要じゃと思うんじゃ。
ちょっとよくわかんないけど。。
せっかくじゃから、栄一さん本人の例えを借りて説明しよう。
もしみんなが自分のことだけを考えて「われ先に!」と行こうとするとどうなるじゃろうか。
しっちゃかめっちゃかになっちゃいそう。
その改札は詰まってしまって、みんな通れなくなるんじゃ。
自分勝手な行動をしたことで、結果的に自分の首を絞めることになるんじゃよ。
ゆずったほうがうまくいくってこと?
お互いにゆずり合うことでスムーズに人が流れるんじゃよ。
周りの人を尊重しながらともに進むことで、結果的に自分も早く通れるんじゃ。
自分の利益ばかりのビジネスをみんながすると、払うお金が増えて世の中の人たちはだんだんお金を使わなくなる。お金の流れが悪くなってしまうんじゃ。
結果的に自分の利益を優先したビジネスをしていた人も稼げなくなり、みんなが不幸になるんじゃ。
じゃが、みんなが社会全体の利益を考えたビジネスをすることで、お金を使う人が増えて、お金がスムーズに回るようになる。自分に入ってくるお金もどんどん増えて、最終的にみんなが幸せになるんじゃ。
道徳のビジネスの両立をみんながやって、日本が今よりもよくなっていけばいいなー
『渋沢栄一』のギモン
栄一さんについて理解できたじゃろうか??
栄一さんがどんな人でなにをやってきたのかさ!
でもちょっと気になることとか知りたいことあるから聞いてもいい??
なんでもいってごらん。
もし渋沢栄一がいなかったら日本はどうなってた?
「もしも渋沢栄一さんがいなかったらいま日本はどうなってたんだろ?」って。
ハカセはどうなってたと思うの??
日本は今ほど豊かになっていなかった
栄一さんは近代化に大きく貢献した人じゃからの。
もしかしたら2、30年ほど遅れていたかもしれんの。
日本は今ここまで豊かになっていなかったじゃろう。きっと。
われわれにとっては生まれたときからあったものばかりからイメージはしづらいんじゃが、どんなものだってちゃんとだれかが頭で考えて、体を動かして、時間をかけて、苦労して作ってくれたものじゃ。
栄一さんがいなかったらその“あたりまえにあるもの”が今より少し少なかったかもしれんの。
みんなの生活のあたりまえを作っちゃうなんてすごいなー
逆に今までなんで渋沢栄一はお札にならなかったの?
渋沢栄一さんって人はこんなにすごい人なのにさ、なんで今までお札に選ばれなかったの??
そこがすっごく不思議!
でも選ばれなかったんでしょ??
ひげがなかったから
経済人が選ばれるのはそんなに多くはないからもしかしたらそういう観点もあったのかもしれんの。
どうして渋沢栄一は時代を超えて今も愛され続けてるの?
ぼくの勝手な想像なんだけど、渋沢栄一さんがお札になったのは、“今もみんなから愛されてるから”、てのもない??
だってぼく今まで栄一さんのことなんにも知らなかったけど、今日知ってすっごく好きになったもん!
これだけ世の中のため、みんなのために生きた人じゃ。
いまも栄一さんのことを愛する人は多いじゃろう。
かくいうわしもその1人なんじゃ。
そっか!だからそんなに栄一さんにくわしいんだね!
偉大な功績、道徳経済合一の思想、温厚で誠実な人柄
栄一さんが今も愛されるのは、
近代化や経済発展に貢献したという“偉大な功績”
社会全体の利益を追求するという“道徳経済合一の思想”
というところがあるじゃろう。これまで紹介した部分じゃな。
それ以外でいえば、栄一さんの“人柄”、というところもわしはあると思うんじゃ。
栄一さんは常に向上心を持ち新しい挑戦をしつつも、温厚で誠実な人柄じゃったそうじゃ。
その人柄が論語と算盤を読むと伝わってくるんじゃよ。
栄一さんの性格の部分もみんな好きだったんだねきっと!
なんか栄一さんのこともっともっと知りたくなってきちゃった!
また教えてくれる??
まとめ
- なんで渋沢栄一は新1万円札に選ばれたの?
- 日本の近代化に大きく貢献したから
- 渋沢栄一ってどんな人?
- 道徳とビジネスを両立し、日本の近代経済の礎を築いた実業家
- 渋沢栄一はどんな人生だったの?
- ❶ 野心に満ちた『尊攘志士時代』
- ❷ 頭角を現した『幕臣時代』
- ❸ 国のしくみを改めた『新政府役人時代』
- ❹ 人々を豊かにした『実業家時代』
- 渋沢栄一は何した人?残した功績は?
- ❶ 日本の経済・金融制度の基盤を構築した
- ❷ 日本の近代産業の発展に貢献した
- ❸ 教育・福祉・医療・文化・インフラなど幅広く社会に貢献した
- ❹ 道徳経済合一思想を広めた
- 渋沢栄一から学ぶべきことは?
- ❶ 公益の追求
- ❷ 弱者救済
- ❸ 道徳とビジネスの両立
- もし渋沢栄一がいなかったら日本はどうなってた?
- 日本は今ほど豊かになっていなかった
- 逆に今までなんで渋沢栄一はお札にならなかったの?
- ひげがなかったから
- どうして渋沢栄一は時代を超えて今も愛され続けてるの?
- 偉大な功績、道徳経済合一の思想、温厚で誠実な人柄
- 渋沢栄一は論語から人としての大切な考え方を学んだ
- 渋沢栄一は「日本を良くしたい」という強い思想を持つようになった
- 渋沢栄一はパリで日本にない株式会社・銀行・機械工場などのしくみを学んだ
- 渋沢栄一は役人時代、2年弱で200以上の改革をおこなった
- 民間人になった渋沢栄一は500もの会社の設立や運営に携わった
- 渋沢栄一は600もの社会事業にも取り組み、教育や福祉や医療などあらゆる分野で社会に貢献した